都市の喧騒が沈みきらぬ夜更け、音の輪郭だけが冴えわたる瞬間がある。
ルリニコクの『青と砂漠の子守唄』は、その静寂の端でふと立ち止まった者の耳に落ちてくる、奇妙に冷たい光を宿した楽曲だ。
子守唄と呼ぶには優しすぎず、絶望と呼ぶには整いすぎている。
この歌は、癒しの装置でも、物語を運ぶ船でもない。むしろ、私たちが普段見ないふりをしている「現在という暴力」や「記憶の埋没」、そして「意味が蒸発した世界の呼吸音」を、あえて子守唄のかたちに閉じ込めた作品である。
私・相沢は本作を「現代的ニヒリズム」と分類してみた。
救済を約束するのではなく、救済が不可能である世界そのものを静かに照射するからだ。
以下の評論では、『青と砂漠の子守唄』を貫く6つの軸──
“イマ”の暴力性、地獄としての子守唄、砂と蜃気楼の記憶論、鏡の破壊、主体の溶解、そしてただ一つの「問い」
──を手がかりに、この残酷で誠実な楽曲の核心へと分け入っていこう。
1. 「イマ」という暴力――時間の専制としての現在
本作において最も執拗に反復される語は「“イマ”」である。ここでの現在は、単なる時制ではなく主体を侵食する暴力的な力として描かれている。
| 小さく閉じたふやけたドアで 隠す”イマ”はカビ臭い。 |
現在とは通常、最も確実な実在のはずだ。
しかし本作では逆に、「イマ」は腐敗し、隠蔽され、逃避される対象として提示される。
これはハイデガー的な「本来的時間」ではなく、むしろ資本や都市に回収された“管理された現在”であり、主体を自由にするどころか、窒息させる時間である。
| “イマ”に飲まれて、眠る。 |
ここでの「眠り」は休息ではなく、思考停止=存在の放棄に近い。
現在に飲まれるとは、「生きること」ではなく「現像され続けること」に等しい。
2. 子守唄という名の地獄――救済の形をした絶望
本作最大の逆説は、「地獄」と「子守唄」が結合している点にある。
| 地獄の子守唄。 すべてを忘れ、眠る。 |
子守唄とは本来、存在をこの世界へと やさしく留める装置である。
しかしここではそれが、記憶を消し、問いを奪い、思考を沈黙させる装置として転倒されている。
これはニーチェ的な意味での「忘却」に似て非なるものだ。
ニーチェの忘却が生の肯定に向かうのに対し、この忘却は生存の惰性に向けられている。
耳を塞いで、眠る。
この行が象徴するのは、「聞くこと」=他者・世界・自己への応答責任の放棄である。
ここで眠る作為は、救済ではなく倫理からの撤退なのだ。
3. 蜃気楼と砂――記憶と物語の不可能性
砂と蜃気楼は、本作を貫く重要なメタファーである。
| いつかの物語は砂の中。 いつかの物語は蜃気楼。 |
砂は「記憶の堆積」であり、蜃気楼は「意味の幻影」である。
物語は確かに“あった”が、もはや掘り起こせない。
ここにはポストモダン以降の「大きな物語の喪失」が極めて詩的に表現されている。
重要なのは、「失われた」ではなく「砂の中にある」とされている点だ。
つまり意味は消滅してはいない。
ただし、アクセス不能な形で埋没している。これは記憶の死ではなく、記憶への到達不可能性の悲劇である。
4. 鏡を破る衝動――自己認識からの逃走
| いつかの物語は砂の中。 いつかの物語は蜃気楼。 |
鏡は自己認識の象徴だ。
ここでの「鏡を破る」とは、自己を直視することへの拒否である。
しかし興味深いのは、「理由を探し」た結果として鏡を破ってしまう点だ。
つまり、この破壊は無思考ではなく、過剰な思考の果ての自己否定である。
にもかかわらず、直後に繰り返されるのがこの言葉だ。
| そうね。それが楽なの。 |
すなわち本作は、自己否定が自己防衛へと転化する瞬間を冷酷に描いている。
鏡を壊すことで主体は解放されるが、その自由は空虚であり、次の支配(=子守唄)へと滑り落ちていく。
5. 「あなた=わたし=世界」――主体の消滅と形而上学的崩壊
| ねえ、あなた=わたし=世界。 |
この等式は、本作の哲学的核心である。
これは一見、全体的一体性のようにも読めるが、文脈上それはユートピアではない。
むしろここで成立しているのは、主体と他者と世界の差異の消滅であり、すなわち責任の消滅である。
区別がない世界では、罪も罰も選択も成立しない。だからこそ続くのが、
| 今日も砂にまみれ、沈む。 |
である。一体化は上昇ではなく、沈降として描かれている。
これは仏教的無差別観とは決定的に異なり、むしろ現代的ニヒリズムの完成形だ。
6. それでも光る星屑――無意味の中の問いだけが残る
| 無意味な星屑さえ、今日も光る。 どうして? |
この「どうして?」は、本作全体における唯一の純粋な哲学的問いである。
すべてが虚構であり、眠りであり、蜃気楼であるにもかかわらず、なぜ「光」は残ってしまうのか。
ここに、作詞者の冷笑でも諦観でもない、存在論的な違和感が露呈する。
そして最後の一行。
| 地獄で呼吸しながら。 |
ここで生は否定されない。肯定もされない。ただ持続してしまう。
希望も絶望も超えた場所で、呼吸だけが続く。
この態度は、カミュ的な「不条理の受容」に極めて近い。
まとめ
本作は「救われなさ」を受け入れるための子守唄である。
『青と砂漠の子守唄』は、癒やしのための音楽ではない。むしろこれは、
| 現在という暴力 記憶の埋没 自己否定の快楽 主体の溶解 意味なき生の持続 |
といった、現代人が無意識に抱え込んでいる地獄の構造そのものを、子守唄という最もやさしい形式に包み込んだ残酷な作品である。
だが同時に、この作品は完全な虚無に堕ちきってはいない。
「どうして?」という一語が、最後まで残されているからだ。
問いが残る限り、思考は死なない。思考が死なない限り、完全な地獄にはならない。
この歌は、救済を与えない。だが、救済が不可能であることを曖昧にせずに“歌う”ことで、かろうじて誠実であろうとする作品である。
それゆえ本作は、現代における最も正確な子守唄のひとつだと言える。
眠らせるための歌ではなく、眠ってしまった私たちのための歌として。
青と砂漠の子守唄

群れる街に埋まるあなた。
黒いビルに映る世界。
小さく閉じたふやけたドアで
隠す”イマ”はカビ臭い。
星屑が踊りだす至純の夜は
鏡破り、黄色を吐く。
そうね、それが楽なの。
サルサに包まれ光失う日々に、
そう。いつも。そこで響く…
地獄の子守唄。
すべてを忘れ、眠る。
いつかの物語は砂の中。
生きていく。
矛盾を抱いて、眠る。
あなたもあなたも嘘。蜃気楼。
黄色の小山に数多の枯れ人。
「この先ご存じ?」
「もしもし…?」
砂漠の子守唄。
“イマ”に飲まれて、眠る。
いつかの物語は蜃気楼。
無意味な星屑さえ、今日も光る。
どうして?
世界を見つめてかくれんぼ。
青き神の声。”イマ”に割りこむ夜。
寒い人の間。無意味な影。
そして朝を待つ。回る星にすがる。
世界樹を斬り倒してそっと嘯く。
ねえ、あなた=わたし=世界。
今日も砂にまみれ沈む。
星屑のパレードを横目で笑う。
理由を探し、鏡を破り。
そうね。それが楽なの。
矛盾に包まれ、光失う日々で…
地獄の子守唄。
すべてを忘れ、眠る。
かつての物語は砂の中。
いつまでも。
耳を塞いで、眠る。
あなたもわたしもそう。
生きている。
地獄で呼吸しながら。
この記事の筆者
相沢具布都。哲学者。電子の世界から来たならず者。

